「眠り姫は堕天使の夢を見るか？」　伊藤ヘルツ

　真夜中の学校。廊下の窓から差し込む月明かり。その光を正面から受け、佇む私。まるでセリフを忘れた舞台女優の気分。言葉は何も生まれない。私はただ立ちつくす。
　淡い黄金色の光に、微かな色彩が含まれていることに気付く。消えてしまいそうな色。微妙な角度が織りなすストライプ。それは、私のすぐ側《そば》にある緑の非常灯と消火栓の赤ランプのせい。
　突然湧き出た衝動。赤ランプのすぐ脇にあるボタンを押す。けたたましく鳴り出す非常ベル。月の光が差し込むこの場所には全くそぐわない。
　制服のスカートを押さえながら、全力で駆け出す私。突き当たりを右へ曲がり階段を駆け下りる。蒼冷めた下駄箱を横切り、また階段を駆け上がる。廊下、階段、廊下、階段。赤い点滅に支配された校内。
　そして渡り廊下を駆け抜け、自分の教室へ飛び込む。と同時にその場にしゃがみ込む。胸に手を当て、貪るように酸素を取り込む。背中を伝う汗。破裂してしまいそうな心臓。静脈から動脈へ、フル稼働で血液を押し出す。
　やがて非常ベルは鳴りやみ、校内は元の静けさに包まれる。息が整うとともに、頭の中が静寂の音で満たされてゆく。
　そこで私は気付く。整然と並べられた机。窓際の一番後ろの席に誰かが座っていることを。月明かりに照らされた女の子。顔を机に伏せているため誰かはわからない。でも、その人物は紛れもなく私自身。なぜならそこは私の席だから。
　足音をたてないように、ゆっくりと私自身へ近づく。眠っているの？　リノリウムの床からは、隠しきれない私の足音。けれど私自身は身動き一つせずに机に伏せている。
　シルクのような髪。微かな呼吸と共に上下に揺れ、キラキラと反射している。なだらかな肩。その肩から伸びている白くしなやかな腕。手首に巻かれた小さな腕時計が、控えめに時の流れを主張している。
　そして、その肩にそっと触れる私。と同時に、私の肩も誰かに掴まれる。ゴツゴツとした岩のような感触。グローブの様に大きな手。
　振り向くとそこに、蒼白い光に照らされた父がいた。

　１　イカロスのネックレス

　ベッドから起きあがる私。白いレースのカーテンが揺れる。窓からは穏やかな風。純白の世界に包まれた室内。天井も、壁も、シーツも、何もかも白い世界に溶け込んでしまっている。お互いが反射し合い、まるで自分が宙に浮いているような錯覚。失ってしまいそうな平衡感覚。私は子猫のように眩しさに目を細める。
　窓から聞こえる音。これが私の目覚めた原因。渋滞気味の車、ノロノロと動くバス、すれ違う人達、連なる店とビルディング。そして散乱したゴミと、それに群がるカラス。機械的な日常が今日も繰り返されている。何の疑問も抱かずに、そして少しの狂いもなく今日をこなす人々。
　それに引き替え、ここはどうだろう？　真っ白で、限りなく無に近い世界。優しい風が頬を撫でるだけ。まるで時間が静止しているよう。私は白い世界を漂う。漂いながら下界を見下ろしている。そこにあるものは、いつもと何も変わらない退屈な風景。
　窓とは反対の方向へ目を向ける。白いプラスチックのトレイに朝食が用意されている。二つにカットされたトースト。その隣には、色鮮やかなサラダ。カップに注がれたスープからは、白い湯気が上っている。コンソメの香り。でもあまり食欲がない。それはきっとこのメニューのせい。
　そして手元に置いてあった縫いぐるみに目を落とす。ボロボロの小さなテディーベア。腕や首の部分には、決して上手くはない修繕《しゅうぜん》の後。体を大の字に広げて眠っている。ううん、目を開けてるから起きているはず。私は確認するために縫いぐるみを抱いてみる。微かに鼓動を感じる。そう、私の胸に……。

　ノックの音とともに、白衣を着た女の人が入ってくる。私のベッドの縁に座り、微笑みながら私を見つめる。でも私には微笑み返す理由が見つからない。確かに顔見知りではあるけれど、それだけの理由で顔は綻《ほころ》ばない。
　先生は無表情の私を気にすることもなく、笑みを保ったまま私に体温計を差し出す。そして私の父の話を始める。
　先生の口から父の話題はよく出るけれど、その度に気分が悪くなる。胸の中心が、更に中心へと収縮して行くような……後頭部の髪の毛を後ろへ引っ張られているような……そんな気分。記憶の底から湧き出る黒い嫌悪感。それがオレンジ色に発光して、私の中を支配する。
　ふと先生の胸元へ目が行く。珍しいネックレス。大きさは三センチくらい。ディープブルーの石に、男の人の顔が掘られている。そして顔の両側に誇示された大きな翼。それらにゴールドの塗料が流し込まれている。
　私は父の話題を中断させるために、その奇妙なネックレスについて質問してみる。
「イカロス」と先生が一言呟いた。
　ラビリンスに閉じ込められたダイダロスとイカロス。脱出を試みるために鳥の羽を蝋《ろう》で固めて翼を作り、そして空へ飛び立った。しかし太陽に近づきすぎ、太陽の神であるヘリオスを怒らせたイカロスは、翼を溶かされ大海原へと落ちて行った。
　先生が何かを喋るたびに、その石は微妙に角度を変え、室内の光にキラキラと輝く。
　いつしか話題は父の話に戻っていたけれど、その石を見つめていることで、不思議と私の気分は紛れた。
　やがて先生は私との距離を更に詰めた。そして私の頬に触れる。ひんやりとした手。私を海底から海面へ引き上げるような手。親指が涙を拭うように目の下をなぞる。
　私は泣いていたの？

　２　セラピー

　騒がしい教室。いくつかのグループに分かれて、楽しそうに雑談をしている生徒達。一番後ろの窓際の席で眠っている私。飛び交う言葉は一旦私の耳に入り、私というフィルタに断片化されて、開け放たれた窓から、春の校庭へと逃げて行く。
　それらの言葉と入れ違いに、優しいそよ風が舞い込む。そして私の髪を揺らし、頬をくすぐる。それは目が覚めてしまう一歩手前の心地良さ。
　私はクラスメイトに『眠り姫』と呼ばれている。それは決して良い意味ではなく、私が一日中眠っているから。
　退屈な授業、退屈な休み時間。退屈な登校、退屈な下校。私の眠りは時と場所を選ばない。微睡みが顔を出したかと思うと、たちまち深い眠りの国へと誘われる。誰もが、私の眠たげな顔しか知らない。私の霞んだ瞳しか知らない。

　チャイムが鳴り、静かになった教室。三時間目の授業。教室を支配している教師の声。気怠くも支配的な言葉。私を更なる眠りの底へと引き込む。
　シャープペンシルとノート。黒鉛《こくえん》の芯がリズミカルに薄片《はくへん》の上を滑る。まるでモールス信号のよう。生徒達の無言のやり取り。私には関係のない秘密の会話。解読不可能な暗号。
　私は眠る。支配的な言葉とモールス信号に包まれて。私の腕時計から紡ぎ出される時間の音を聞きながら。やがて私は、外部とのアクセスを絶つ。誰も私の眠りを妨げようとはしない。なぜなら、私は『眠り姫』と呼ばれているから。

　突然誰かに肩を掴まれた。岩のようなその感触。否応もなく眠りの国から引き戻される。不透明な意識のまま、前髪を掻き上げ体を起こす。そこには、スーツに身を包んだ父が立っていた。
　帰宅後、いつの間にか眠ってしまった私。部屋に差し込むオレンジ色の夕日。単色の世界に、私と父のコントラストが強調される。
「おかえりなさい」と私は言う。でも父は何も答えない。その代わり、私の肩を掴んだ手が少しだけ緩む。
　そしてオレンジ色に染まった父の顔が近づく。汚れに満ちた吐息が私を拘束する。重なる二つの影法師。父の視線。父の息使い。父の匂い。それらすべてを遮断するために、私は人形と化す。ううん、人形に徹する。人形は心を持たない。だから僅かな感情の漏洩《ろうえい》も許されない。
　テディベアは傍観者。私達を見つめる黒いガラス玉の瞳。私はその瞳を見つめながら、ただひたすら待ちわびる。短い時の中で、気の遠くなるような終末を。

　３　風化した天使の彫像

　カーディガンを羽織り、廊下へ出る私。白い風景は、そのままリノリウムの床に逆さまの世界として映し出されている。まるで朝靄に包まれた湖面《こめん》。少しでも身動きをしようものなら、たちまち水中に引きずり込まれてしまいそう。
　意を決して恐る恐る歩き出す。そんなおぼつかない私をよそに、行き交う人達は上手に湖面を渡っていく。私に手を差し伸べるどころか、一瞥《いちべつ》をくれる人すらいない。
　窓から見える灰色の空。その空に侵食された雲。自らの形状を変化させ、ゆっくりと動いている。そんな空を見ていると、私の周りだけが酷く早回しな印象を受ける。
　一階へ続く階段に到達した頃、前方にいる一人の少年が目に入った。その少年もまた、私と似たような歩き方。両手でバランスをとりながら、一歩一歩ゆっくりと歩いている。
　その不器用な歩き方に、偏愛な笑みがこぼれる。そう、私も同じ。私もかろうじてここまで辿り着いたから。だから気をつけて。湖に沈んでしまわないように。逆さまの世界に引き込まれないように。
　少年とすれ違う時に、何気なく床に目を落として私は驚く。逆さまの世界に映る少年。その少年の背中には、白く大きな翼が。それは天使のように清らかで美しい翼。
　とっさに顔を上げ、少年の顔を見る。優しい笑みを浮かべて私を見つめる少年。

　周囲を病棟に囲まれた、十メートル四方の中庭。日差しはその中庭の半分を照らし、無数の窓には灰色の空が映り込んでいる。小さな世界。そう、箱庭の中に迷い込んでしまった感覚。辺りを見回すまでもなく、ここには誰もいない。誰もいない箱庭。
　ゴシック調のベンチに座る私。鉄のベンチからは、秋の冷たさが伝わってくる。だからその冷たさを紛らわすために、中央の噴水を眺める。手入れの滞った枯葉まみれの噴水。もちろん水は出ていない。
　その噴水の真ん中に設置された彫像。片方の翼が折れ、土色に風化した天使。両手に瓶《かめ》を抱え、水遊びでもしているような格好。でもその表情からは何も読み取れない。楽しげでも、悲しげでもない。それは翼が折れてしまったせい？
　彫像が、ゆっくりと病棟の影に覆われていく。影の面積が増えるにつれ風化が目立ち、どことなく不気味な印象を受ける。
　そして私の座っているベンチが影に包まれた頃、私は初めて来たこの中庭に大した感動も覚えず病室へ引き返した。

　４　セラピー

　ふと机から顔を上げると、授業が始まっていた。数学の授業。黒板に書き連ねられた意味不明の数字や記号。あの記号は何だったかしら？　そう、コサイン。あの数式は……ド・モアブルの定理。
　複素数、複素平面、一次関数……教師の口からは難解な言葉が飛び出し続ける。
　ローズピンクやソフトイエローのチョーク。消しては書き込まれる数式。
　スカイブルーやライトグリーンのチョーク。それを必死にノートに書き写す生徒達。
　シャープペンシルとチョークの滑る音が、私を眠りの国の入口へ立たせる。
　等角写像、初等関数……
　振り向いた教師の顔には見覚えがあった。肩にかかった髪、人の心の深い部分まで見透かしたような瞳、難解な言葉にはそぐわない赤い唇、そしてイカロスのネックレス。
　コーシーの積分定理、テイラー展開……
　そのネックレスと教師の顔を交互に見比べる。やがてそれぞれの残像が重なり合う。それは壊れた映写機のような頼りなさ。青ざめた教師の顔が歪む。そして視界が霞む。私はまた眠りの国へと吸い込まれて行く。

　人形に徹しきれなかった私。頬を伝う涙。きっと私の瓶に溜めていた涙が、溢れてしまったのだろう。そう、それは背徳の排水。きっと濁った色をしているに違いない。
　背理《はいり》と言う名の部屋。父のグローブのように大きな手が私の髪を梳く。混沌《こんとん》とした時間。不規則な秒針の音。万物の根元としての無。
　オレンジ色の空は、いつしか冷たい夜の色へと変わっている。窓から差し込む月明かり。こんな私達にも、月は平等に光を注いでくれる。
　スーツの皺を正す父。そして私に背を向けてゆっくりと去って行く。規則正しい歩調。革靴の乾いた足音が響く。そして静かに扉が閉まる。その数秒後、カチャリと鍵のかかる音。
　扉に走る私。扉を開けようとする私。でも扉は開かない。いくら叫んでも父には声が届かない。いくらドアを叩いてみても誰にもその音は届かない。
　私は机へ戻り、冷めた食事を摂る。トーストとサラダ、そしてコンソメスープ。

　５　堕天使

　病室の窓から、ぼんやりと外を眺める。今日もいつもと何も変わらない風景。
　行き交う人々の中から、ターゲットを決めて目で追う。でも途中で見失ってしまった。似たような人が多すぎて見失ってしまう。その時点で、また別のターゲットを選ぶ。新しいターゲットは、さっきのターゲットとは逆の方向へと歩いて行く。だけどやはり人に紛れて見失ってしまう。そう、保護色に身を変えた被食生物のように。
　みんなそんなに急いでどこへ行くの？　行き先には何があるの？　誰が待っているの？
　灰色の空の下で演じられる無言劇。観客は私だけ。このまま何も変わらないと思っていたストーリー。でもそれは私の一方的な思い込み。
　そう、それは一瞬の出来事。
　突然空から何かが落ちてきた。何か……それはぶれた写真のように頼りない被写体。窓から外を眺めている私。私の目の前をその『何か』が通り過ぎようとしている。
　そう、それは一瞬の出来事。
　その『何か』が丁度私の目の高さまで来た時、それが人間の子供であることがわかった。そしてその子供と目が合う。優しい目をした男の子。私に微笑みかける。確か以前、こんな目を見た記憶があった。こんな優しい顔を見た記憶があった。
　そう、それは一瞬の出来事。
　街中に響き渡るような大きな音と共に、微かに地面が振動する。そして数多くのカラスが、灰色の空を目掛けて飛び立つ。
　我に返り、窓へ乗り出し地上を見る私。遙か下の地面に横たわる子供。赤い絨毯の上で微動だにしない。
　そして私は気付く。彼は間違いなく、昨日廊下ですれ違った少年。なぜなら彼の背中からは、昨日と同じように天使の翼が生えていたから。でも中庭の彫像の様に、片方の翼が欠けている。イカロスの翼のように溶けてしまったのだろうか？
　病棟から飛び出してくる大勢の白衣達。巣の異変を感知し、ゾロゾロと溢れ出すシロアリのよう。走り回る人、しゃがみ込む人、遠巻きに静観する人、何かを必死に叫ぶ人、そこには様々な白衣がいる。
　そんな光景にも関わらず、病院の外側には何の影響も及ぼしてはいない。そう、無機質な無言劇には、やはり突発性など用意されていなかった。

　６　私というデバイス

　当時、父からの捜索願によって、私は真夜中の教室で保護された。誰もいない教室。月明かりの差し込む一番後ろの席。自分の机に伏せた私は昏睡状態だった。
　施《ほどこ》された様々な応急処置。動揺を隠しきれない父。真夜中の教室を走り回る救急隊と警官。そんな異様な風景の中、眠り続ける私。
　結局その場の処置ではどうすることもできず、私はこの病院へ運ばれて来た。そしてそれから更に一ヶ月間眠り続けた。

　目覚めた私を待っていたものはセラピー……つまり治療。日々繰り返されるセラピーの中で、先生は私の心の中を探査した。そう、少しずつ。決して急がずに。私の呼吸のリズムに合わせるかのように。
　そして先生の繊細な導きによって、徐々に重い扉を開く私。先生はその隙間から私の中へと入り込み、私と同期を取る。ううん、私というデバイスを先生と共有するイメージ。一体となる私達。
　重度の現実逃避症候群、または現実遮断症候群。それが数ヶ月間カルテを取り続けた先生の答え。
『人間には度重なる外的、または内的苦痛に対して、心神をガードする機能が備わっている。つまり許容を越えた苦痛から心神の崩壊を防御するために、脳が意識を遮断してしまうことがある。日常生活における疲労感の中には、それらの機能の一番軽い症状を含むケースが少なくない。しかしその機能が最大限に働いた場合、意識を戻すことは極めて困難とされている』
　私に私自身の事を優しく丁寧に教えてくれた先生。私は何も考えず、先生に従っていれば良いのかもしれない。
　……従う？　……誰に？　……父に？

　７　セラピー

　黒い森の中を走る私。倒木や石に躓《つまづ》かないように、でも決してスピードは落としてはいけない。そう、私は誰かに追われている。草木を掻き分け、枝を踏みならし、私は全速力でその誰かから逃れようとしている。枯葉にまみれた髪や制服。足手まといな学生鞄。走りづらい革靴。でも、そんな事を気にしてはいられない。
　木々の黒い葉の隙間から見える蒼冷めた空。私には気の遠くなるような遠い場所。今すぐ大きな鳥になりたい。シンドバットの物語に出てくるような怪鳥に。そして森を突破して、あの空の彼方へ飛んで行ければ……。
　私のすぐ後ろで聞こえている誰かの足音。あなたは誰？　なぜ私を追いかけ回すの？
　体力が限界に近づいた頃、ちょっとした突起物に躓き、私は急な斜面を転がり落ちていった。

　気が付くと辺りは不気味なほど静まりかえっていた。どうやら追っ手は私のことを諦めたようだ。
　暗闇の中で体を起こす。けれど右足首に激痛が走り、再びその場にしゃがみ込む。
　あれは父だ。父に違いない。私を連れ戻しに来たんだ。再び私をあの扉の内側に閉じ込めるために。
　目が慣れてくるとともに、徐々に周りの風景が見えてきた。乱立した樹木、堅牢《けんろう》な岩、這い回る蔓《つる》、その蔓を覆い隠すように降り積もった枯葉。
　その時、前方で何かが動いた。十メートルほど先に一際大きな岩がある。その岩の上に誰かがいる。天使だ。天使がこちらに背を向けて座っている。小さな背中から生えている白い翼。でも、片方の翼は途中から折れてなくなっている。その翼は、この鬱蒼《うっそう》とした黒い森の中では、唯一の清らかなものとして私の目に映る。
　これで三度目の出逢い。

　８　折れた翼

　一週間前の事件は、様々なメディアで取り上げられた。今でも私の周辺には、その名残が息を潜めている。忘れ去られてしまった過去の出来事のようにも感じるけれど、誰もがその話題を避けているだけ。私は少年の折れた翼を探し出すために、あの場所まで脚を運ぶことにした。

　病室で聞いていた喧噪が現実味を帯びる。車のクラクション、排気ガスの匂い、カラスの鳴き声、街に溢れる音楽、足早に通りを歩く人達。そしてその人達の靴音。私のいるこちら側と、通りを隔つゴシック調の鉄柵。その鉄柵越しに、今日も演じられている無言劇。
　私の部屋の丁度真下。コンクリート部分にできた赤茶色の染み。その染みを見て立ちつくす私。それは紛れもなくあの少年の証。彼がこの世界に存在していた最後の証。
　そしてその染みの周りには、彼を象《かたど》ったスノーホワイトのチョーク。有機的な曲線。でもそこには翼が欠けている。改竄された情報。欠落した事実。でも真実は私の中にある。白鳥の様に大きな翼。飛ぶことのできなかった天使。私は石ころを拾い翼を描き足す。チョークの線とは確実に異なったシャープな翼が完成した。
　いつもと何も変わらない風景。変わった事と言えば、私が一歩それらに近づいたこと。それ以外は何も変わらない。例え私が更に近づいてみたとしても、何も変わらない。昨日と同じ時刻の通行人。そして同じタイミングでカラスが鳴き、クラクションが鳴る。ただそれだけ。
　足を止め、鉄柵の隙間から中を覗き込む人など誰もいない。なぜなら、みんなあの少年の存在を忘れてしまったから。この世界にあの少年が存在していたことを忘れ去ってしまったから。赤茶色の染みとチョークの跡。でも私はあの少年の事を忘れない。なぜなら私に笑みをくれたから。
　私はそんな事を考えながら、翼を探していた。

　９　セラピー

　黒い森の中。足を挫《くじ》いて座り込んでいる私。無理に立ち上がろうとすると、途端に足首に激痛が走る。その痛みから上を見上げると、黒い斑模様《まだらもよう》の隙間に空が見える。透き通った空と足首の痛み。地の底に落ちてしまったような焦燥感に襲われる。
　そして私は、誰かに追われていたことを思い出す。ううん、誰かではない。父だ。父が私を連れ戻しに来たのだ。背理という名の部屋。あの扉の内側に再び私を閉じ込めるために。
　少年は……相変わらず私に背を向けて岩の上に座っている。身じろぎもせずに……だけど翼だけは微かに動いている。まるでそれ自体が呼吸をしているかのように。
　あの少年と話しをしてみたい。でも歩くことができない。そのジレンマから涙が溢れ出す。暖かいそれは頬を伝い、私の細い顎へ到達し、そして雫となって手元へ落ちる。
　そのサイクルが速くなった頃、私は声をあげて泣いていた。森中に響き渡るような泣き声で。飛び立つ鳥の群。父がまだ私を追い続けているとしたら、自ら居場所を教えてしまうことになるかもしれない。でも泣き声は止まらない。
　私の声に気付き振り向く少年。涙で歪んだ視界。全ての事象は不確かなオブジェへと変化する。水中を漂うクラゲのようにゆっくりと舞う少年。私の泣き声で乱してしまった森の秩序。それを宥《なだ》めるように両手を広げている。
　この小さな体の中に、どのくらいの涙が溜まっているの？　止めどなく流れる私の涙。この涙は瓶《かめ》に溜まった背徳の排水なのかもしれない。だとしたら全て捨ててしまいたい。全て流し去ってしまいたい。それまでに一体どのくらいの時を要するの？　声を押し殺して泣く私。
　目の前に舞い降りた少年は、あの時と同じ優しい瞳で微笑んでいる。そして私の隣へ座り、そっと肩を抱いてくれた。その瞬間、鬱蒼とした黒い森に光が差し込んだ。優しい光。全てを包み込んでしまいそうな柔らかな光。私は彼にもたれかかる。そして泣きながら眠りの国へと吸い込まれて行く。

　１０　光の向こう側

　セラピーを終え、椅子に身を任せている私。ゆっくりと瞬きをする。呼吸を一定に保つ。やがて徐々に覚醒に導かれる。点だった視界が開けてくる。そう、アイリスのように。
　熱いくらいに私を照らす白熱灯。診療室にはそれ以外の光源はない。光の外側はあの黒い森と同じ。陰鬱ではあるけれど、どこか懐かしい闇。私は捨て猫のように目を細めて先生を捜す。
　退行催眠によるセラピー。断片的なエピソード。私の過去を共有した先生には、病の根元が見えてきたそうだ。私は改善の方向に向かっているらしい。
　ただひとつ。頻繁に登場する天使の存在だけは、解析が難航しているそうだ。自己防衛の現れ。つまり私は、架空の対象者を生成することにより、無意識のうちに心的苦痛を軽減させている。それが先生の当面の考え。でもそれは違う。だって彼は過去ではなく現在だから。それは紛れもない事実。
　光の向こう側から先生の端正な顔が現れる。そして「順調よ」と囁く。きっと私の表情を読み取ったのだろう。私の髪を優しく撫で、微笑む先生。子供扱いされているようで、少し面白くない。けれど、しなやかな五本の指が心地良い。
　ふと私は気付く。先生がイカロスのネックレスをつけていないことを。ディープブルーの石。金色のイカロス。私がたずねると、少し寂しそうな顔をして「失くしてしまったの」と言った。
　そして先生は、思い出したように私に告げた。父が来週面会に来ることを。

　１１　セラピー

　トーストとサラダ。そしてコンソメスープ。静寂に包まれた部屋の中で食事を摂《と》る私。スープから立ち上る微かな湯気。その湯気が、目の前の壁に大袈裟に投影されている。
　父が出て行った部屋。鍵のかかった部屋。あのドアは開かない。私にはあのドアは開けられない。
「ねえ、開かない扉の話しを知ってる？」
　私は誰とはなしに問いかける。
「決して開くことのない扉の話し」
　窓辺に近づく私。外は大分前に日が沈み、街の明かりだけが見える。
「その扉の内側には、一人の女の子が住んでいました」
　クリスマスツリーの飾りのような夜景。そんな偽りにも見える景色に自分の顔が重なる。
「女の子は、来る日も来る日もその扉の内側で暮らしていました」
　目の前の自分と目が合う。
「夕食の時間になると、お父さんが遊びに来るの」
　目の前の自分に微笑みかける私。
「夕食が終わると、私はまた一人きり。ううん、縫いぐるみと一緒だから二人きり」
　すると目の前の自分も、私に微笑みかけた。
「学校へ行く時間になると、お父さんが迎えに来るの」
　自分と同じような仕草をする目の前の自分が、妙に滑稽だった。
「学校から帰ると、私はまた扉の中」
　ゆっくりと窓へ顔を近づける私。目の前の自分も当然のように、けれど私と同じテンポで顔を近づけてくる。
「まるでかごの鳥みたいね」
　そして目を閉じ唇を重ねる。

　浅い微睡《まどろ》みから覚醒し、窓の外にあの少年を見る。翼をゆっくりと前後に揺らし、いつもの優しい笑みを浮かべて私を見ている。
「まるでかごの鳥みたいね」と私はまた呟く。
　すると少年はゆっくりと首を横に振った。

　１２　中庭にて

　両手でクマの縫いぐるみを抱きかかえる私。正面に見える天使の彫像。風化した片翼だけの天使。
　隣にはスーツ姿の父がいる。何も喋りはしなくても、確かな存在感を私に与えている。威圧的なイメージ。心の底に沈殿している不安定な想い。巨大な深海魚が通り過ぎ、水圧でその沈殿物がかき乱される。
　私達は、もうこうして三十分近くベンチに座っている。数ヶ月振りに会った父。でも私は、ずいぶん昔に父の顔を忘れてしまっている。確かに一緒に暮らしてはいたけれど、視線を交わすことは耐えられなかった。生暖かい空気で、肺が満たされていくような息苦しさ。私の体にかかる圧力。足に重りをつけられ、水中に沈んで行くようなイメージ。
　でも隣にいるのは確かに父。それは父の醸し出す雰囲気でわかる。私の中の人を識別する機能。それとは別の部分で認識する。ううん、認識させられるのだ。
　そして私は、注意深く視線だけを横に向けてみる。少しでも動いてしまうと、この状況が悪化してしまいそうだったから。父のゴツゴツした手が視界に入る。岩のような手。
　その手を見つめているうちに、私は意識が遠のき始めるのを感じる。五感が別の場所へ誘導される感覚。自分の体が、他人のそれと思えてならない。私の心が今にも現実を遮断してしまいそう。風化した天使の彫像が幾重にも重なる。雲の流れが加速する。太陽が雲に隠れるたびに、視界が壊れた蛍光灯の様な点滅を繰り返す。
　突然、父の手が私の腕へ回される。その瞬間、私の中の威圧的なイメージが激増する。消火栓の赤ランプ。高鳴る鼓動。全身の血管が血液の流れを感じ取る。開きつつある瞳孔《どうこう》と汗腺《かんせん》。父の指が腕に食い込み痛む。黒い森の中で、あの少年に包まれた感触とはだいぶ違う。
　縫いぐるみをきつく抱きしめる私。子供の頃に父が買ってくれた小さな縫いぐるみ。継ぎ接ぎだらけのテディベア。
　そして父がゆっくりと口を開く。私が眠っている間に何度も面会に訪れたこと。私が心配で食事もままならないこと。先生に何度も退院を却下されたこと。父の口調は急速にテンポを増していく。
　腕に回された手。その岩のような手が徐々に這い上がってくる。そして私の髪に触れる。父の腕力により、私は父の肩に頭を預ける格好になる。
　寂しくないか？　療養の方はどうだ？　毎日何をして過ごしている？　食事はしっかり摂っているか？　体調は、気分はどうだ？　学校の方には休学届けを出している。様々な問いかけに答えあぐねる私。
　父の手が私の髪を撫でる。でもそれは、あの薄暗い診療室で先生に撫でられた感触とはだいぶ違う。
　そして父は別れ際に、明日のセラピーを最後に、私を退院させる事を告げた。

　１３　継ぎ接ぎだらけのテディベア

　カーテンを開ける私。夜のガラスに映る自分。そしてその後ろには病室の風景。冷たいガラスに隔たれた二つの世界。ううん、リノリウムの床にももう一つ。だから三つの世界。
「私はあなた達の言うとおりに動く」とガラスに映った自分と床に映った自分に呟く。
　正面の自分が瞬きをしたら、私も瞬きをする。
　正面の自分が悪戯に舌を出したら、私もそうする。
　床に映った自分が歩き出したら、私も歩き出す。
　でも……誰も動かない。みんな誰かが動き出すのを待っているだけ。
　バカバカしくなってベッドへ身を投げる私。その反動でスプリングが軋み、クマの縫いぐるみが飛び跳ねる。
　私はなぜこんなものを大切にしているの？　継ぎ接ぎだらけのテディベア。父が私に買ってくれた唯一の縫いぐるみ。そしてこの子は全てを悟る傍観者。
『しかしその機能が最大限に働いた場合、意識を戻すことは極めて困難とされている』
　以前、先生に聞いた言葉が突然脳裏をよぎる。
　明日の今頃は、もうここにはいない。私はあの部屋の中。夜景の見える鳥かごの中。クリスマスツリーの飾りの様な夜景。そこは、私とこの縫いぐるみの二人ぼっちの世界。気の遠くなるような長い夜。誰にも届かない自分の声。
　私は縫いぐるみを手に持つ。「さあ、目を閉じて……」私は先生の口真似をする。「ゆっくりと深呼吸して……」縫いぐるみをそっと自分の隣に寝かせる。「体を楽にして……」縫いぐるみを指先でなぞる。「血液の流れを感じて……」ナイトテーブルに置いてあったハサミを取る。「自分の中に意識を向けて……」そして一気に縫いぐるみの腹部へ突き刺す。
　ショートケーキを切るような音と共に、大量の綿が一気に溢れ出す。そのせいで倍近く拡がる裂け目。シーツを確認してみたけれど、赤茶色の染みは出来ていなかった。
　私はスノーホワイトのチョークの代わりに、手近にあったボールペンを握る。そして縫いぐるみのシルエットをゆっくりとなぞる。この世にこの子がいた証。この子の最後の証。
　縫いぐるみの腹部から、綿を少しずつ取り出す。なおざりに扱うと、どこかへ飛んで行ってしまいそうになる。そう、タンポポの種のように。
　深々と指を差し入れてみると、綿とは確実に異なった感触を覚えた。それをゆっくりと引き出してみる。旧式の鍵が出てきた。
「順調よ」私はまた先生の口真似をした。

　１４　最後のセラピー

　黒い森の中、向かい合う私と少年。少年はいつもの優しい笑みを浮かべている。ゆっくりと開閉する天使の翼。
　そして右手を少し前に出し、人差し指を立て私の様子を伺う。そう、大人が子供に注意を向ける時のジェスチャーのように。もしくはピエロのパントマイム。でもそんな滑稽さは微塵《みじん》もない。
　ほんの数秒の沈黙の後、少年はその右手を自分の襟首へ入れ、手品のように何かを取り出した。ネックレス。そう、金色のイカロスが掘られた、ディープブルーのネックレス。決して明るくはないけれど、深い色彩を放っている。少年の胸の上で、この森と同調するように重く輝いている。その光を確認して、少年はちょっと得意げな表情を浮かべる。
　けれど私も負けじと悪戯な笑みを浮かべる。今日の私達は、宝物を見せ合う子供のよう。お互いのニュースを持ち寄り、この黒い森へ集まった。
　私は後ろに回していた両手を前に出す。そう、勿体ぶるように。そしてそっと手を開き、昨日見つけた鍵を少年に見せる。その瞬間、少年の表情がハッキリと変化した。

　私の瓶に溜まる涙。背徳の排水。混沌とした時間。不規則な秒針の音。万物の根元としての無。背理と言う名の部屋。かごの鳥。切り裂かれたテディベア。赤茶色の染み。スノーホワイトの曲線。灰色の空。ローズピンクのチョーク。難解な数式。スカイブルーのチョーク。真夜中の学校。消火栓の赤ランプ。黒鉛が奏でるモールス信号。オレンジ色の夕日。リノリウムの湖。ゴシック調のベンチ。風化した天使の彫像。いつもと何も変わらない風景。涙で歪んだ世界。巨大な深海魚。トーストとサラダ、そしてコンソメスープ。

　少年が私に手を差し伸べる。病院の廊下では誰も助けてはくれなかったけれど、少年は私に手を差し伸べてくれた。確かな温もり。他の誰よりも暖かな手。その瞬間、優しい風が吹き、木々がざわめく。そして柔らかな光に照らされる。ディープブルーの光。それは羊水《ようすい》に包まれているような気分。
　空を見上げる私。斑模様の葉の隙間から、透き通った空が見える。地の底に落ちた焦燥感はもうない。
　さよなら、先生。私は先生に聞こえるように心の中で囁く。そして少年と共に飛び立つ。あの扉を開けるために。もう戻らない。もう二度と。